フェラーリエンブレム

イタリア・モデナにあるエンツォ・フェラーリ・ミュージアムでは、フェラーリ創始者エンツォ・フェラーリ氏のレガシーを知ることができます。

この記事では、ミュージアムの展示内容に加えて、フェラーリの跳ね馬の歴史や、エンツォ氏の息子ディーノとピエロ・ラルディ・フェラーリ、そしてエンツォ氏の秘書が語るエンツォ氏の人物像などをご紹介します。

前回の記事?エンツォ・フェラーリ・ミュージアム

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フェラーリ・エンブレム「跳ね馬」の由来

フェラーリの跳ね馬(Cavallino Rampante(伊)prancing horse(英))について検索してみると、その由来には複数のバージョンが存在しています。

しかし、どのバージョンにも共通しているのは、フェラーリの跳ね馬が第一次世界大戦で活躍したイタリア軍のトップパイロット、フランチェスコ・バラッカ伯爵(Francesco Baracca)が乗っていた機体の馬のエンブレムに由来するというところです。

フランチェスコ・バラッカ伯爵
フランチェスコ・バラッカ伯爵
Source: Museo Francesco Baracca

英語版 Wikipedia の エンツォ・フェラーリのページには、バラッカ伯爵がエンツォ氏に跳ね馬のネックレスをプレゼントしたとの記述もありますが、情報のソースを確認できませんでしたので、ここではフランチェスコ・バラッカミュージアムのウエブページ The Prancing Horse の記述をご紹介します。

”When Enzo Ferrari, driving an Alfa Romeo RL-Targa Florio with Giulio Ramponi, won the first Savio Circuit  in Ravenna  on 16th June 1923, he came across Count Enrico Baracca, Francesco’s father, whom he had already met in Bologna some time before. That second encounter, as Ferrari himself wrote on 3rd July 1985 to Lugo historian Giovanni Manzoni, gave rise to yet another meeting, this time with Francesco’s mother, Countess Paolina Biancoli. “This is what she said to me one day:”  – wrote the Maranello  car manufacturer: “Ferrari, use my son’s prancing horse on your cars. It will bring you good luck. ” (…) “I still have Baracca’s photograph, with his parents’ dedication entrusting his emblem to me. ” – concluded Ferrari – “The horse was and has remained black, but I added the canary yellow background, the colour of Modena ”. 

The Prancing Horse, Museo Francesco Baracca

エンツォ・フェラーリは、アルファロメオ RLタルガ・フローリオ(レース仕様のRL)にジュリオ・ランポーニと乗り、1923年6月16日ラヴェンナのチルキット・デル・サヴィオで初優勝しました。

そのとき、以前ボローニャで会ったことのあるフランチェスコ伯爵の父親、エンリコ・バラッカ伯爵と再会しました。

フェラーリ自身が、ルゴの歴史家ジョバンニ・マンツォーニにあてた1985年7月3日の手紙によると、その2度目の出会いはさらに次につながり、今度はフランチェスコ伯爵の母親、パオリーナ・ビアンコ―リ伯爵夫人に出会います。

「ある日彼女はこう言ったんだ」フェラーリは綴ります。『フェラーリ、息子の跳ね馬をあなたの車にお使いなさい。きっと幸運を授けてくれるわ』(中略)

「僕は今でもバラッカの写真を持っているよ。彼の両親がエンブレムを僕に託してくれた気持ちと一緒に」-フェラーリは最後にこう締めました-「馬は今も昔も黒のままだが、背景にカナリア色の黄色を付け足したよ。モデナの色をね」
(訳:Yuki Kai)

バラッカ伯爵の葬儀
Source: Museo Francesco Baracca

もしあなたがフェラーリを巡る旅をしてみたくなったら、フランチェスコ・バラッカ・ミュージアムに足を延ばすのもいいかもしれませんね!

フランチェスコ・バラッカ・ミュージアム
Museo Francesco Baracca
via Baracca,65 Lugo 48022 (RA)

フランチェスコ・バラッカ・ミュージアム地図

24歳でこの世を去ったエンツォ・フェラーリの息子ディーノ

エンツォ・フェラーリ・ミュージアム
Credit: Yuki Kai

エンジン・ミュージアムではエンツォ・フェラーリ氏のオフィスも再現されています。

上のオフィスの写真、窓際には筋ジストロフィーで24歳の若さでこの世を去った息子、アルフレードの写真が飾られていますね。

アルフレードの愛称はディーノ(Dino)でした。

ディーノは、ボローニャ大学で自動車工学を学んだ後、フェラーリに入社しました。

そして、バンク角65度の1.5リッターV6エンジンの開発に携わりましたが、完成を見ずに亡くなります。

このV6エンジンはのちにディーノV6と命名されました。

前回の記事中の1967年製V6エンジンは、ディーノ206GTに搭載されています。

206GT のエンブレムはフェラーリでなくディーノ。エンジンの刻印もディーノです。

Dino 206 GT V6 - 1967
Dino 206 GT V6 – 1967 Photo by Arnaud 25
Dino Emblem
ディーノエンブレム
Dino V6 engine
ディーノ V6 エンジン F135B 1986cc V6 65° 180HP@ 8000RPM – 1967
Credit: Yuki Kai

1967年製ディーノV6は、当時のフェラーリでは生産キャパシティを超えていたため、フィアットがエンジンを鋳造し、フェラーリが組み立てました。

このV6エンジンはフィアットが生産したスポーツカーにも搭載され、「フィアット・ディーノ」と命名されています。

ディーノの名前が継承されていますね。

1971 Fiat Dino 2400 Coupe
1971 Fiat Dino 2400 Coupe
Source: Wikipedia

ピエロ・ラルディ・フェラーリ|エンツォ・フェラーリのもうひとりの息子 

Piero Ferrari
ピエロ・フェラーリ
Photo credit: Città di Modena

エンツォ氏にはディーノのほかに、もうひとり息子がいました。

エンツォ氏の愛人リーナ・ラルディが1945年に生んだピエロ・ラルディ・フェラーリです。

当時のイタリアでは離婚が合法でなかったため、ピエロはエンツォ氏の正式の妻ローラが亡くなる1978年まで息子として公に認知されませんでした。

妻ローラの死後、ピエロと母親リーナ・ラルディはモデナにあるエンツォ氏の邸宅に移り住み、現在もそこで暮らしています。

ピエロ・フェラーリはモデナで育ち、フェルモ・コルニ・インスティチュートで機械工学の学位を取得しました。

彼は、1969年にフェラーリで非公式に働き始めました。

最初は父親・エンツォ氏の英語の通訳をしていましたが、1970年代には技術監督として正式に採用されます。

その後F1チームで当時スクーデリア・フェラーリのマネージャーだったルカ・ディ・モンテゼーモロ(後のフェラーリ会長)の補佐を務めた後、

1980年中盤には、ロードカー部門の生産監督となり、フェラーリF40、F50、そしてラ・フェラーリなどのコンセプト開発に携わりました。

1988年にエンツォ・フェラーリが亡くなると、ピエロはフェラーリ家のただ一人の後継者として、エンツォ氏が所有していフェラーリ社の10%の株式と、フィオラーノ・サーキットの所有権を継承し、翌年にはフェラーリの副会長に就任しました。

2015年10月のニューヨーク証券取引所上場の際には、彼が所有する10%の株式が11億ドルと評価され、普段はあまり表に出ることのないピエロが、ビリオネアとしてメディアの注目を集めました。

ピエロにはアントネッラという娘と、エンツォとピエロというふたりの男の子の孫がいます。

エンツォ・フェラーリの秘書が語るボス

エンツォ・フェラーリ・ミュージアム
オフィスで語るエンツォ・フェラーリ
Credit: Yuki Kai

モータースポーツマガジン1994年8月号にエンツォ・フェラーリ氏の秘書、ブレンダ(Brenda Vernor)さんのインタビューが掲載されています。

美術館では触れられていない内容ですので、参考までにインタビューから浮かび上がってくるボスとしてのエンツォ・フェラーリ像をランダムに書き記してみます。

インタビュー全文はこちら?Enzo Ferrari’s right-hand woman

  • プレス・リリースの原稿や翻訳した文章はいつも細かくチェックされ、コンマやたった一単語でも直されたりしていた。
  • 酷い癇癪持ちで爆発すると大変。でも10分もすればケロリと忘れていた。
  • とても良い人だけど、まわりはいつも彼の機嫌を気にしていた。
  • お休みをお願いするときは機嫌のよいときを狙って切り出さないといけなかった。
  • ユーモアのセンスがあってよく人をからかっていた。
  • 英語は話せないし理解もできなかったけど、フランス語は話せた。
  • 海外旅行はせず、レースはテレビで観戦。後日ドライバーをマラネッロに呼び寄せ、パフォーマンスについて話し合っていた。
  • オペラを楽しみ、若い頃は書くことも得意だった。
  • 1988年8月14日に亡くなり翌朝7時に直近の家族だけで葬儀を行った。メディアは葬儀が終わった後で知らされた。
  • 抜群に記憶力が良い
  • 女性が好き
  • お客好きで誰にでも(掃除係にさえ)あいさつをしていた。みんなにおはようと言いに行っていた。

どうですか?

あなたはエンツォ氏のもとで働いてみたいですか?

余談:エンツォ・フェラーリとサッカー選手メスト・エジルが似ている件

エンツォ・フェラーリ メスト・エジル
エンツォ・フェラーリ(左)とメスト・エジル(右)
Source: Public Domain (Enzo Ferrari); Deutsche Fußball-Bund (Mesut Özil)

エンツォ・フェラーリ氏と、プレミアリーグ・アーセナル FC のミッドフィルダー、メスト・エジル(Mesut Özil)選手が似過ぎていると数年前からインターネット上で話題になっていますがご存知でしたか?

エンツォ・フェラーリ氏の写真は1920年代に撮られたもの。

メスト・エジル選手は 2018年版のドイツ代表ユニフォーム着用なので、約100年の隔たりがあるのですが、髪型までも左右対称で似ていますね!

おわりに

知れば知るほど魅力の増してくるフェラーリの世界。

わたしにはフェラーリが次元の異なる空間で栄え続ける王国のように見えます。

その王国を築き、今なおカリスマ的アイコンとして存在し続けるエンツォ・フェラーリ氏に敬意を示して、この記事を終えたいと思います。

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