前回から引き続き、マルセイユ・ノートルダム大聖堂で撮った4枚の写真をベースに綴るシリーズ。
今日の写真は、マルセイユのノートルダム大聖堂内の祭壇、
中央は銀のマリア様の像です。
このノートルダム大聖堂は、マルセイユの港を見下ろす高台にあるのですが、
300年前のペスト流行時、大聖堂までの坂道を徒歩でのぼり、苦しむマルセイユ市民のために祈った司教の存在がありました。
この記事では、マルセイユで起きたペストの大流行と、マルセイユ市民の救済に貢献したベルザンス司教についてお伝えします。
300年前マルセイユで起こっていたこと
今からちょうど300年前の1720年、マルセイユは腺ペストと肺ペストの流行で大変なことになっていました。
このペストの流行で、1720年から1722年までに、当時のマルセイユ人口9万人の半分以上、周辺地域を含むと合計10万人が亡くなり、Great Plague of Marseille(マルセイユのペスト大流行)として歴史に残ることになりました。
当時の検疫制度
当時のマルセイユをはじめヴェネツィアなど多くのヨーロッパの貿易港には、14世紀のペスト(黒死病)流行後から検疫制度が導入されていました。
船の寄港記録や乗員乗客の健康状態がチェックされ、定められた隔離期間は入港は許可されず、その間に感染者が出なければ入港できる仕組みが確立していたのです。
ちなみに、その隔離日数が40日間だったことから、40を指すイタリア語クアランタ quaranta が現在の検疫 quarantine の語源となっています。
さて、当時のマルセイユでは隔離期間を3段階に設定していて、船が伝染病の流行地域に寄港していなくても、乗員乗客は全員市内のラザレットと呼ばれる隔離場所に最低18日間の隔離を義務付けられていました。
乗員乗客が全員健康に見えても、もし船が伝染病が流行している地域に寄港していた場合は、マルセイユ港から離れた島のラザレットに隔離されました。
感染の症状がみられるときは、長い時では50~60日間の隔離期間が終了するまで、マルセイユへの上陸は許可されず積荷を売ることも許されませんでした。
マルセイユにペスト菌が入った理由
上記のように、すでに検疫システムが確立していたのに、マルセイユに港からペストが入ってしまったのは一体どうしてだと思いますか?
ペスト菌はレヴァントからの貿易船によって、外国からマルセイユに入ってきました。
この貿易船は、マルセイユに入る前に当時伝染病が流行していたキプロス島に寄港していました。
すでに乗客、船員、船医が伝染病に感染し死者が出ていたので、船はマルセイユ沖の離れ島のラザレットに隔離されました。
当時レヴァントには裕福な港が多数あり、マルセイユはこのレヴァントとの貿易をフランス内で独占していました。そのため、隔離中の積荷にはマルセイユの商人たちが注文した大量の輸入品が詰まっていました。
そこで、港にすでに着いている商品を早く売りたいマルセイユの有力商人たちは、市の上層部に圧力をかけて隔離期間の終了を待たずに隔離を解除させてしまいます。
積荷の中には布製品が含まれ、ペスト菌を媒介する蚤がついていたという見解があります。
その数日後、マルセイユにペストが流行し始めました。
病院はすぐにパンク状態になり、住民はパニックになりました。流行のピークには1日に千人以上が亡くなる日が続きました。
集団墓地は掘るそばからすぐにいっぱいになり、やがて墓地の供給は死者の数に追い付かなくなりました。
町のあちこちに何千もの遺体が積み重なって放置され、街には死体の腐敗臭が充満していました。
ペストの流行を食い止めるため、マルセイユを含むプロヴァンスからの交易と旅行は禁止され、軍隊により非常線で遮断されました。
現在もプロヴァンス地方に残るペストの壁 Mur de la peste = a plague wall と呼ばれる高さ2m幅70㎝の石壁もその頃建てられました。
そんな努力も虚しく、ペストは南フランスに広がっていき、マルセイユ市内で5万人、南フランス全体で10万人といわれる死者を出しました。
マルセイユを見棄てた金持ちと民衆のために残った司教
ちょうどペストが流行し始めたとき、マルセイユの港には大型船が停泊していました。それは、モデナ侯爵家へお嫁にいくオルレアン王女一行がイタリアへ向かう船でした。
マルセイユの有力者たちは、これ幸いとオルレアン王女の船に乗り込み、こぞってマルセイユを脱出したのです。
一方、貧しい市民は雇用主を失い街に残され、続々と病に倒れ死んでいきました。
そんな中、逃げずにマルセイユに残って、民衆を救うために尽くしたのが、ベルザンス司教と聖職者たちでした。
ベルザンス司教(アンリ・フランソワ・ザビエル・ド・ベルザンス・ド・カステルモロン)は、カステルモロン侯爵ベルザンス家出身で、聖職の役職に就く前はイエズス会に属していました。
彼はペスト流行期間中に3度、高さ150mの高台に建つノートルダム大聖堂まで歩いて上り、マルセイユ市民のために祈りを捧げたと伝えられます。
上の写真は、ペストに苦しむマルセイユのために祈るベルザンス司教と聖職者たちのレリーフです(サント・マリー・マジョール大聖堂)。作品上の女性はマルセイユの街を現すとされています。
ベルザンス司教が献身的に民衆を救済したことは広く知れ渡り、イギリスの詩人アレキサンダー・ポープの「人間論」書簡四 にも登場し、「マルセイユの善良な司教」と呼ばれています。
“Why drew Marseilles’ good bishop purer breath,
When Nature sickened, and each gale was death?”
– Alexander Pope, Essay on Man: Epistle IV
(私訳)自然が病み、突風の一吹きごとに死がもたらされる中、どうしてマルセイユの善良な司教は澄んだ空気を吸えたのか?
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Alexander Pope, Essay on Man
フランス王からもその業績を称えられ、褒賞として領地を呈されています。
しかし、ベルザンス司教は、ローマ教皇クレメンス12世(Clement XII)から親授されたパリウム(首~肩にかける帯のようなもの)だけで十分として、領地の受け取りを辞退しています。
À Dieu ne plaise que j’abandonne une population dont je suis obligé d’être le père. Je lui dois mes soins et ma vie, puisque je suis son pasteur.
ベルザンス司教(wikipedia フランス語版 私訳)
God forbid that I abandon a population of which I am obliged to be the father. I owe him my care and my life, since I am his pastor.
神は私が父である義務を負う民を見棄てることを禁じました。私は神に仕える羊飼いであるゆえ、民をケアし命を捧げるのです。
このマルセイユのペストの流行は1722年に終息します。
市の人口の半分以上を失ったマルセイユでしたが、経済活動は数年で回復し、人口はペスト流行開始45年後の1765年には元の数字に戻りました。
おわりに
いかがでしたか?
300年前のマルセイユで、権力を持つ商人が、経済活動(積荷を早く売りたい)を理由に行政に圧力をかけ、行政は船に感染の疑いがあり死者さえ出ているのを知りながらも、商人からのプレッシャーに屈して検疫を緩めました。
結果としてペストが流行し、市民を危険に晒しました。
マルセイユのペスト流行は、市民の安全より経済を優先することがいかに愚かなことかを歴史が示す好例だと思います。
本記事はwikipediaのほか以下を参考にしました:
Catholic Encyclopedia (1913)/Henri François Xavier de Belsunce de Castelmoron
Ermus, Cindy. “The Plague of Provence: Early Advances in the Centralization of Crisis Management.” Environment & Society Portal, Arcadia (2015), no. 9. Rachel Carson Center for Environment and Society. https://doi.org/10.5282/rcc/7029.
Global Biodefense/Examining DNA from the Great Plague Pits of Marseille